Friday, December 29, 2017

「類似性の理論」抜き書き

模倣に関するヴァルター・ベンヤミンの小論「類似性の理論」から抜き書き。
自然はさまざまな類似性を生み出す。擬態のことを考えてみるだけでよい。しかし、類似性を生み出すもっとも優れた能力をもっているのは、人間である。それどころか、人間の備える高度な機能のうち、模倣の能力によって規定されていないものはおそらくないだろう。
子どもの遊びにはいたるところで模倣的な行動様式が浸透している。しかもその領域は、人間がほかの人間の真似をするといったことには決して限られない。子どもは、お店屋さんごっこや先生の真似をして遊ぶだけでなく、風車の真似や電車ごっこをしたりもする。
論の本筋は以下の通り。
占星術について述べておけば、非感性的類似という概念を理解してもらうには十分だろう。言うまでもないことだが、これは相対的な概念である。つまり、ある星の配置と一人の人間のあいだに存在する類似性ということが問題になりえた状況は、われわれの知覚のうちにはもはや存在しないということだ。しかしながら、非感性的類似という概念にまとわりついている不明確さをより明確なものにするための規範(カノン)はわれわれにもある。その規範とは言語である。
星や内蔵や偶然の出来事から何かを読み解くということが、人類の太古の時代にあっては、読むという行為そのものであったとすれば、さらにまた、ある新しい読みへといたる媒介項──ルーネ文字はそのようなものだった──が存在したとすれば、次のように想定してみるのも、きわめて自然なことである。つまり、かつて未来などを見通す力の基盤であった模倣の才能が、何千年もかけて発展していくうちに、ほんとうに少しずつ、言語や文字のなかへと入り込んでいき、言語や文字のうちで、非感性的類似のもっとも完成された書庫となっていったということである。
すなわち、人間の持つ模倣の能力はかつてに比べて大きく損なわれているように見えるが、じつは言語や文字として完成されたのである。

論の最後に「補足」として記された次の段落は結論ではなく、論の途中にはさみ込むべきもの。
われわれがもっている、類似性を見るという才能は、似たものになりたい、また似たふるまいをしたいという、かつて圧倒的にわれわれに強く迫っていた力の単なる弱々しい残骸にほかならない。似たものになるという、あのどこかに失われてしまった能力は、われわれがまだ類似性を見ることができるこの狭い知覚世界をはるかに遠く越えてゆくものであった。何千年も前に、誕生の瞬間、一人の人間のうちに星の位置が及ぼしていた力は、類似性に基づいて織り込まれたものだったのだ。
いずれも山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』より。